冥土の土産

キュアップ・ラパパ ?

「ふたり」になれない私たち

好きな人がいる。

今日も好きな人とセックスをした。

「可愛いね」「大好きだよ」と好きな人は言った。

でも、私は好きな人の恋人ではない。

この関係を始めてから、一体どれくらい自問自答を繰り返してきただろうか。一体どれだけ自分を責め、恨み、呆れ返っただろうか。

セックスはありとあらゆる問題をうやむやにしてくれる。彼に抱かれている瞬間だけ、私たちは「ふたり」になれているような気がしていた。

 

「今年は結婚しようかなあ」

 

好きな人が今日帰り際に言った。

 

「え、マジで?」

 

そんなリアクションしかできなかった。

彼の年齢を考えると結婚したいという発想は当然のものだし、それを考える度に私があまりにも子供だという事実を突きつけられる。

私は彼が好きなのだ。だから彼の描く未来に、彼が結婚するであろう人間の候補にすら私はいないということが悔しかった。

好きな人は女好きの筆不精の身勝手の気分屋だ。

「そんな人のどこがいいの?」と最近よく友達に聞かれる。正直に言うと私にももうわからない。というか、「ここが好き」とかいうレベルではないのだ。細胞レベルで私は彼から安心感を得ているしときめいているし惹かれているのだ。

彼の名前を呼ぶ度に幸せな気持ちになって、それと同時に胸がきゅっと苦しくなる。これを恋と呼ばずして、愛情と呼ばずしてなんと言えよう。

彼の前ではもはや「わからない」という感情ですら愛おしいのだ。彼の存在は私のどうしようもない死ぬ以外の選択肢が浮かばないようなどん底の朝も昼も夜もすべて塗り替えてしまうような魔法だ。そしてどれだけもがいても深みにはまっていく、取り返しのつかない感情にさせてしまう麻薬だ。

私たちにはきっといつか終わりが来る。

それは1年後かもしれないし半年後かもしれないし1ヶ月後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。

私が彼を好きでいるように、彼にも人を好きになる権利がある。好きになるという感情の前では全てのものが意味を失ってしまうからきっと彼はわたしになんの情を感じることもなく関係を解消するだろう。

でももうそれでもいいかな、と思っている自分もいる。それぐらいのことがないと私はきっと、彼を諦めきれないからだ。もちろん彼と付き合えるのならばそれがいちばん嬉しいことだけれど、そればかりは言ってみないと、行動してみないとわからないし、なにより怖い。他人に戻るのが怖い。

でもひとつだけ決めていることがある。

私が成人する3月までには決着をつけようと。

この件に関してはそれが実現できるかどうかは私の中では大した問題ではなくて、そんな決心をできた自分をまず褒めてあげようと思う。

好きな人を諦めるということ。

それは一大決心であり、終わりであり始まりだ。

きっと彼に振られたとしても、私はたぶん夏には別の恋をしているだろうし、そのうち彼の表情や仕草なんかも忘れてしまうのだろう。

忘れるということ。それは成長なのかもしれない。

人は色んなことを忘れて生きてゆく。

どれだけ好きだった彼氏でも別れてしまえば生きてようが死んでようがどうでもいい存在になってしまったりもする。 忘れないと前に進めないことは案外多く存在するし、忘れることで救われたりもする。

でも私は思う。

「好きな人」のことは忘れてしまっても「好きな人を一生懸命に好きでいた私」のことは忘れたくないな。

人に愛情を向けられるというのはこの上なく素晴らしいことだし、それが依存だろうと執着だろうと「好き」という感情を持っているのならばそれでいいんだと思ったりもする。

いつか、その終わりが来るまで、私は彼を真正面から愛していようと思う。彼がくれたたくさんのもの、それを1粒もこぼすことなく大事に抱えて、たとえ滑稽だと思われても、一途に彼だけを見つめていたい。

だからもう少し、もう少しだけ。

私に彼を好きでいさせてください。

私たちの関係性を、惰性を、甘えを、許してください。

「ふたり」になれない私たちのことを。